Marieta, Veronica Rizky (0442009) (2014) Kepemimpinan Toyotomi Hideyoshi di Dalam Novel Toyotomi Hideyoshi No Keiei Jyuku. Undergraduate thesis, Universitas Kristen Maranatha.
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Abstract
序論 リーダーシップとはある組織が目的を達成するためのプロセスの中で、指導者 (リーダー)が支持者に与える影響をさす言葉である。リーダーシップとは一 般的に経験に基づいている。すべてのリーダーは何かしらの強い性格をもって おり、この性格の違いがリーダー像の違いを生んでいる。リーダー像の類型と して Sondang.P.Siagian が分類したリーダー像とは「独裁型」、「家父長型」、 「カリスマ型」、「自由放任型」、そして「民主的統制型」の 5 点である。他 の研究者も同様にリーダー像の類型分類を行っているが、例えば「正当な指導 者」「非公式のリーダー」「状況型リーダー」「リーダーシップの達成」「指 導的地位のリーダーシップ」などもリーダーやリーダーシップの類型分類とみ なされている。 リーダーシップ論は興味深いテーマであり、本論文は北見正雄著“豊臣秀吉の 経営塾”を基に豊臣秀吉のリーダー像ならびにリーダーシップについて述べて いく。この小説では 1536 年に尾張藩中村で生を受けた豊臣秀吉に焦点を当て 進められていく。豊臣秀吉にはもともと何の人間的な優位性を持っていないと いわれていた。体は弱く、身長も 150cm 程度であり、耳は大きく頭も大きく扁 平していたといわれている。しかし秀吉は偉大な武士になることを意識してお り決して自らの欠点を嘆くことはなかった。地の利をいかし、知性と熱意を持って自らの野望を達成させることに邁進した。そして秀吉は自身の地位を確立 するための人物である織田信長と出会う。 本論 本論文では北見の小説を基に秀吉のリーダー像とリーダーシップの型を先の類 型分類を用いて分析することで秀吉のリーダーシップの形を明らかにするもの である。 まず秀吉は状況型リーダーシップの類型であるといえる。これは 1566 年織田 信長の軍勢は美濃藩への攻撃を開始した。信長は美濃攻めの主要拠点として墨 俣にとりでを構築するアイデアを得た。墨俣村は 3 本の河川の合流地点に形成 され、美濃と尾張の国境に位置している。そのため的の領地に攻め込むには絶 好の位置取りであるといえる。 信長は砦の構築のため、幾人かの武将に命じたものの失敗におわり、さらに招 聘の命まで失うこととなった。信長はその後 3 度築城を命じるが、家臣たちが 反対し築城は難航していた。その時秀吉は自らその作戦の実行を願い出た。 信長様は重臣たちの不甲斐なさに苛立っていた。そして家臣を集 めた席上でどなった。「墨俣に砦を作らねばならぬ。誰ぞ、引き 受けるものはおらぬか。」「いかが致した。名乗って出る者はお らぬか」「おのれ、誰一人おらぬとは何たる臆病者、それでも織 田家の家中か」わしはその時「恐れながら私めが・・・」と声を 上げた。信長様は、やや不信の表情をあらわにした。「藤吉郎、 信長に仕えていたころ、秀吉は信長の草履取りをしていた。秀吉にとって信長 はただの主君ではなかった。信長は部下を信頼し独自の方法で問題解決に当た らせる自由を与えていた。そして秀吉はそうした主君のもとで得た自信をもと に独自のやり方で自らの仕事をこなしていく。 信長さまは、合戦も領国経営も外交も家来の人事などあらゆることを自 分の思い通りにしたが、ことを思いつくとすぐ自ら馬を駆って出かけた。 この信長様に合わせるのは大変だった。 ワシの寝床は白の出入り口の近くだった。土間にムシロを敷いただけの 寝床だった。ワシはそこで寝起きすることで、信長様の動き察知して、 そのご要望にお応えしようとした。まさに二十四時間の働きだったから、 ぐっすり寝れたこともなかった。はたから見れば「ただの草履取り」に 見えるかもしれない。だが、大将から与えられた仕事は、仮に大したこ とがなかったとしても、全力を尽くすべきだ (Masao, 2005: 46- 47) 上記の引用からわかることは秀吉の信長に対する献身的な奉公ぶりである。秀 吉はどんなに不快な状況であったとしても、信長のことに注意を払いすぐにそ の要望に応えることに喜びを見出した。 秀吉にもまたそうした献身的な部下がいた。それが小六である。小六もまたつ らい時代を過ごし出世していった。 小六殿の功績は大きなものがあった。「秀吉の行くところ、小六殿あり」 という感じで各地を転戦してくれた。ワシはその功績に応えるため、天 正元年(1573 年)に近江長浜で所領を与えた。また、天正元年には播磨 竜野城主とし、五万石の大名にした。小六殿は高松城の開城にも尽力し てくれた。ワシは天正十四年には小六殿を阿波国守りに任じて、十七万 石を与えた。その国守は本来ならば小六殿が就任すべきものだが、小六 殿は息子の家政に家督を譲り、政務を息子に任せてしまった。そして自 分自身は今後ともワシのそばで奉公させてほしいと願い出た。ワシはそ の心が嬉しく、大阪城近くに屋敷を建ててあげた。小六殿は最後までワ シに仕えてくれた。 (Masao, 2005: 161- 162) ここからわかることは秀吉のリーダーシップの肯定的な側面とその影響力であ る。 結論 小説「豊臣秀吉の経営塾」の中で秀吉のリーダーシップについては 2 つに分類 されている。 一つは状況のリーダーシップである。これは状況により必要とされ、その環境 の中でリーダーシップを発揮し進化していく過程で様々な支援などによってさ らに強固なものとなっていくことを指す。 第二のリーダーシップとはカリスマ的リーダーシップである。秀吉は典型的な カリスマ型リーダーであったと言える。非常に精力的に、熱意をもって組織を 率いていく姿は、まさにカリスマ的なリーダーであったといえよう。秀吉は多 数の献身的な部下を持ち、そしてそうした部下たちは秀吉の魅力ある特性にひ かれた者たちである。秀吉の軍には明確なビジョンがあり、それには多大の費 用と犠牲を伴うものであるが、そうした者たちは喜んで従事するのである。そ れはひとえに、秀吉のカリスマ的リーダーシップがなせる業である。 リーダシップに加えて秀吉には様々な形での支援があり、それもまた秀吉のリ ーダーシップを支え、強くした要因である。まず、秀吉は信長に仕えることを 決めた要因である。信長はリーダーとしての素質を強く持っており、秀吉はそ の信長から大いに学ぶところがあった。信長に対しても常に躊躇することなく 新しい提案をし、そして必要な手順を踏みその実行にあたったのである。 そうした信長の影響は後年秀吉自身も同じことをしているところからも見て取 れる。家臣の提案をむげに拒否することはなく、耳を傾け、議論をしたうえで 物事を決定している。こうした秀吉のあり方は家臣が自身に従うように指示、 教育するなど自らのリーダシップを発揮することによって物事をうまく運んで いったのである。
Item Type: | Thesis (Undergraduate) |
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Subjects: | P Language and Literature > PI Oriental languages and literatures |
Divisions: | Faculty of Letters > 42 Japanese Department |
Depositing User: | Perpustakaan Maranatha |
Date Deposited: | 27 Jan 2015 06:33 |
Last Modified: | 27 Jan 2015 06:33 |
URI: | http://repository.maranatha.edu/id/eprint/9666 |
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